雛壇アーキテクチャー

雛壇つくるぜ

『風の谷のナウシカ』を劇場で観てきたよ

■俺は本当のナウシカを知らなかった

 皆さんご存知『一生に一度は、映画館でジブリを』というキャッチコピーの下、スタジオジブリの『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』『ゲド戦記』の4作品が劇場で上映されているというので、久しぶりに劇場での映画鑑賞を楽しみたくて妻と観に行くことにした。

 とても気楽なお出かけになるはずだった。

 あんな目にあうとも知らずに。

http://www.ghibli.jp/info/013278/

 

■何が『一生に一度は、映画館でジブリを』だ

 夫婦でテレビを見ながら、上記4作品のうちナウシカ以外の3作品は子どもの頃にリアルタイムで劇場で観たことあるし、劇場でみたことないナウシカを観ようか、うん、そうしよう、という会話の中で我々はナウシカを選んだ。

 この会話のとき、私の中ではジブリとはいえ最も古い作品であること、過去に何度か金ローで見たはずなのに記憶がおぼろげであったことなどから、はっきりいうと『風の谷のナウシカ』という作品を甘くみていたことを認めざるを得ない。

 結論からいうと何が一生に一度だ。最低でも1年に1回は劇場で見せてくださいお願いしますお願いしますできれば半年に1回は観たいですけど可能ですかねそこを何とかお願いしますお願いします。と声を大にして言いたい、という映画体験になった。

 

ちなみに先に劇場で見る際の私の状況の前提だけ説明させてもらうと、ナウシカに関しては幼稚園の頃や小学生のころに2、3度金ローで観たものの、難しくて何となく怖い映画だなぁという印象のまま何となくナウシカを避けて成人してしまったというものである。

■とんでもねえもんが始まった

 はじめは懐かしくもほほえましい気持ちで見始めた。あぁ、昔のやわらかいアニメの質感だなぁ、懐かしい、デジタルだとこうはいかないのかなぁ、あの子ども時代はもう二度と帰ってこないんだなぁ、などとオッサンじみた感慨にふけっていた。

 振返って考えると、この瞬間はまだ『風の谷のナウシカ』に向き合うだけの覚悟ができていない自分の甘さに全く気付いていなかった。

 

 しかし、OPの壁画の登場と同時にその瞬間は突然訪れた。「しまった!とんでもねえもんが始まった!」と思わず口にしそうになるほどの衝撃を受けた。「待ってくれ!まだ心の準備が……」しかし淡々とスクリーンに映し出される映画に大きく衝撃を受け、全身が硬直したのは忘れられない。決して誇張ではなくジェットコースターに乗っているときよりも身体が一瞬こわばったのをはっきりと覚えている。ちなみに最も身体がこわばったのは、前述のとおり壁画が映し出されたカットが登場した瞬間で、ジェットコースターにたとえると、自分が乗っているアトラクションがジェットコースターだと気付かなかったが、落下する直前になってジェットコースターだと気付いたような感覚である。

 その後の壁画シーンも、例えるなら、これまでテレビや映画で観てきたCGのティラノサウルスに偶然バッタリ出くわしてしまった、みたいな気持ちだ。実際に経験したことはないけど、もし実現したら「CGだといまいち迫力ないように見えたけど、実物はこうなんや~!」と思うだろうな、という感覚だ。

 「これは劇場のスクリーンで見るためのものやったんやなぁ、うちの小さいテレビで見ても本来の力が発揮できんものやったんやなぁ、あ、庵野秀明って名前あったけどあの庵野さんかな、これだけの映像見せられると物語の説得力が段違いやなぁ」OP映像の迫力に圧倒される数十秒は時間がゆっくり流れるような錯覚に陥っていたが、その錯覚の中で様々な思考が脳内を駆け巡っていた。

要素を詰め込みまくっているのにちゃんと形になっている

ナウシカ環境テロリストではなかった(理由がちゃんとある、人間が好き)

「青き衣を纏いし者、」のやつ、オウムの体液で青く染まっているのは完璧ではないか

 

■予感はほぼ的中した

 映画を観終わったとき、前述の「とんでもねえもんが始まった」という直感はほぼ間違っていなかったことを改めて思い知った。「ほぼ間違っていなかった」というのは、OPの時点で想像したものよりも遥かにおそろしい映画だったからだ。

 どこがすごい映画だったかを一つだけ抽出するとすれば、色んな要素を詰め込んでいるにもかかわらず説得力のある劇映画としてちゃんとまとまっていること、この一点ではないだろうか。

 環境が破壊され切って戦争が起こっている不穏な世界の中でエンタテイメントとしての物語を成立させ切ること、古くから伝わる伝承を主人公で説得力をもって成立させること、その前提として主人公はじめ主要キャラクターに感情移入が十分にできるようになっていること、いずれも極めて高いレベルで実現されている。ハイレベルの映像表現の中で。

 

■その者青き衣を纏いて……の伝承

 映画を見る中でざっくり認識した範囲でこの伝承をフランクに言い換えると、『青い服を着て黄金の野に降り立つときに、汚染された世界と人間社会を和解させ、腐海からの逃亡も終わりを迎えるだろう』というものだ。

 そしてこの青き衣を纏う者というのは、もちろん物語の主人公であるナウシカのことである。

 子供のころに2,3回金ローでナウシカを観たという程度の記憶だと、ナウシカは最初から最後まで一貫して青い服を着ていたような印象を持っていたが、これは完全に誤りだった。確かに最初は青い服なのだが、物語の中盤でわざわざ赤い(というかピンクに近い?)服に着替えるのである。

 この赤い服への着替えは、ナウシカが住む風の谷に攻め込んできた軍事大国トルメキアに囚われた後の逃亡劇の中で必然的に発生した変装イベントで、同じくトルメキアと戦争状態にあるペジテの衣装を借用するというものだ。

 こうしてナウシカは物語の流れで必然的に青い服を着ずに赤い服を着ることになるのだが、赤い服を着て逃亡する中で遭遇する事件で状況が大きく変わる。

 借用したペジテの服で逃亡する中で、ナウシカは、王蟲の子どもが半死半生の姿で飛行艇に吊り下げられ、大人(成虫?)の王蟲たちの怒りを煽りながら風の谷に誘導するという光景を目の当たりにしてしまう。その光景を見てナウシカは憤り、自身の逃亡よりも半死半生の王蟲の子どもの救出を優先する。

 救出された王蟲の子どもはパニック状態であったため、強酸の海に逃げ出そうとするものの、ナウシカが身を挺して制止し、ナウシカ自身脚が強酸の海に突っ込むことになってしまう。しかし、その様を目の当たりにした王蟲の子どもはパニックから解放され、落ち着きを取り戻す。

 この一連のナウシカの動きの中で、ナウシカの服は王蟲の青い体液で青く染まり、上記の伝承が成立する重要な前提が出来上がることとなる。

 この後、怒り狂う大人の王蟲たちに跳ね飛ばされて瀕死になったナウシカに対して、子どもの王蟲が黄色の触手を伸ばした時点から大人の王蟲たちも落ち着きを取り戻し、大量の黄色の触手がナウシカの身体を包み込み、傷が回復したナウシカが触手の上で立ち上がることで伝承の風景は成立することになる。ナウシカを観たことがない人も、このシーンは名場面として目にしたことがあるのではないだろうか。

 

■伝承の景色とその本質に違和感が皆無

 さて、ここで成立した伝承だが、服装が青いことや王蟲の触覚が金色の草原に見えるという景色の作りが非常に巧みな構成であることを劇場で見ることではじめて思い知った。

 まず、このシーンでは、ナウシカ腐海の代表格である王蟲と人類を和解させる可能性を秘めた存在であることを示すが、ここに至るまでにナウシカの服は王蟲の体液で青く染まり、そのナウシカに対して王蟲が癒しの触覚を伸ばすというのは本質的にみてまさしく王蟲と人類の和解を示すものであり、ナウシカの服が王蟲の体液で染まった理由となるナウシカの行動を思い返すとそれが和解の理由に十分になるもので直感的に腑に落ちる。

 しかも、ナウシカは、『地球環境のためなら人類など滅んでしまえ』というタイプの環境テロリストではなく、人類と腐海の生物たちが共存する途を模索し続けている様が描かれており、人類に対しても蟲など腐海の生物に対しても等しく愛情を向けられる存在として、観客からも感情移入を得やすい状態になっており、そのナウシカが人類と腐海の生物たちとを和解させるべき存在として描かれることは何の違和感もなかった。

 映像で物語を見せ、映像のまま理解させる映画だったが、どのシーンも一分の隙もなく心が激しく揺さぶられ続けた名作だった。

 

■まとめ

 好きな映画とか何とかではなくそういうのを越えた殿堂入りになったような気がする。ピクサーと同じかそれ以上のものを感じた。記憶がおぼろげとはいえ、知っている作品でここまで感動させられるのであれば、一生に一度といわず人類の文化財として1年に1回は劇場で観る機会があれば、今この地球に生きる人類としてこれほど幸せなことはないと思うほどだ。
 ラピュタとかを劇場で観たら確実に号泣すると直感したので是非来年の今頃はラピュタや魔女宅を劇場のラインナップに入れて欲しい。